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イタリア旅行記 その8/9  ――ローマーー

イタリア滞在最後の日はローマ終日自由観光。HISではオプショナルツアーとしてナポリ・ポンペイ1日観光とカプリ島の青の洞窟観光も用意されていた。参加者の半数近くがどちらかのオプションに参加し、残りはローマ市内観光。ローマは初めての私も、市内観光を選んだ。とは言え、初めてのローマ。ガイドブック片手に市内を歩くのは物騒だし、あまり効率が良くない。日本から事前に、Green line社のローマ市内1日観光に申し込んだ。136ユーロ(\16000ぐらい)。

宿泊したホテルは郊外にあるため、タクシーを呼んでもらって集合場所のグリーンラインツアーのオフィスへ。4月25日(火)、平日なのに市内に入っても道路は空いていた。渋滞は全くなく余裕で集合場所へ。

乗車した市内1日観光の大型バスはほぼ満席。私以外は全員が欧米人。英語による観光ツアー参加者でレシーバーを持ってのツアー。バスは混載。私は“ケイ”と名乗る中年女性が日本語ガイドとしてバスに乗り込んできた。たまたまこの日はこのツアーへの日本人申し込み者は一人であった。大型バスの最後部片隅にちょこんと座り、一対一でのガイドツアーとなった。

一対一でのガイドツアーは月に1回ぐらいの割合であるようだ。ローマは通勤時間帯でも渋滞が無いのかと聞いた。たまたま、今日、4月25日は祝日だからだとの返答。解放記念日だと言う。
私:「どこからの解放されたの?」
女性ガイド:「連合軍から。」
私:「あ、なんだ、終戦記念日ね。」
(帰国後、念のため調べたらイタリアの北部諸都市が1945年のこの日にドイツ軍から解放されたことを記念する日であった。
あれ?イタリアはドイツと組んで戦ったのにおかしいな?さらに調べると、イタリア南部はその2年前に連合国軍に陥落していた。つまり、この記念日は連合国側にたって、ムソリーニを助けていたドイツとファシストから北部を奪還したと言うことである。)イタリア ローマ トレビの泉 モデル2 DSC_2286

午前中は、トレビの泉やパンテオンの見学。トレビの泉は昨日も行っている。コインを投げると再び訪れることができるというので、昨日、1セント投げ込んだことを思い出した。なるほど、コインを投げた効果てきめん。トレビの泉では花嫁衣装を来たモデルが写真撮影をしていた。


トレビの泉の後はパンテオン。パンテオンは世紀前後にできた神殿。神殿と教会の違いはわかりますかと女性ガイド。ン?そう聞かれるとわかっているようで答えられない。答えは、神殿は神様(ローマのパンテオンはローマの神様、アテネのパルテのンはギリシャの神様)を祀っている。教会はキリストを祀っている。パンテオンの中央にはギリシャ神話の神々の中の神様と言われるゼウスの像が鎮座している。(たぶん、ギリシャから奪ってきたもの。)
そのゼウス像の左横の方に、(名前は忘れたが)美しい男性の象がある。ミケランジェロはホモだったので、この男性像がいたく気に入っていた。そして、フィレンツェのダビデ像の顔はその男性像を模写して制作している、これはミケランジェロが書いた記録に残っていると説明してくれた。

パンテオンの中で有名なのはラファエロのお墓。このお墓がどうしてそこにあるのか?もともとラファエロが希望したからだった。その次のような裏話が面白かった。

レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロとともにルネサンス3大巨匠のひとりと言われるラファエロは良家の育ちであった。教皇側はラファエロに安く壁画を描かせようとたくらんだ。ラファエロは良家の育ちなので高い描画代金は要求しなかった。その代わり、死んだらパンテオンに葬ってくれることを望んだ。教皇側は、それはお安い話、それまでにラファエロをこき使って絵をたくさん書かせようとの魂胆の下、了解した。ところが、ラファエロは37歳の若さで早死にしてしまった。(女遊びが過ぎたという話がある。)あてが狂った教皇側はラファエロの約束を守らず、パンテオンの隣に小さな塚を造って葬った。そして忘れ去られていた。

1870年12月28日にローマ市内が大洪水に見舞われた。水が引くとパンテオンの外側に石棺が現れた。ラファエロの名前が刻まれていた。本当にラファエロの棺?市は調査した。石棺の中には遺骨を包んでいたと思われる繊維の破片が見つかった。分析した結果、紫色の布であった。当時、紫の布を巻いて葬ったのは高貴の人だけ。ということで石棺はラファエロのものと認定され、その後にラファエロの希望通り、パンテオンの中に移されて今に至っている。

イタリア旅行記 その7/9 ― ―サンジミニャーノからローマへーー


イタリア旅行も残り2日。朝7:15分にホテルを出発。フィレンツェからローマに向かう。途中、塔の街として知られるサンジミニャーノへ寄る。ローマまでの道のりがバスで6時間ぐらいかかるので休憩を兼ねての立ち寄りです。
塔の街、何それ!と思う人が多いかもしれない。私は、偶然にもNHKのBS番組「ふれあい世界の街歩き」という番組のこの塔の街を見ていたので、少し興味があった。丘の上にある小さな街である。巡礼者がローマに行く途中で立ち寄ったのがこのまちのはじまりだ。交通の要所だった。ベローナよりも小じんまりとした街。この街へ入るには城壁の一部として残されている門から入る。石畳が続く。中世の街にタイムスリップした感じはする。街の中心部はユネスコの世界遺産に認定されている。
イタリア サンジミニャーノ EBP12-32788A 
(上の写真↑と下の写真2枚↓はいずれも阪急交通公社のウェブからの無断借用)

染料として珍重され、金のように高価だったサフランの生産地でもある。街の有力者たちは、サフランの取引と交易により莫大な富を築き上げた。そうなると、人間は馬鹿なんだね。大抵はお決まりの抗争が始まる。この街も、ベローナと同じで、13世紀や14世紀に皇帝派と教皇派が争っている。2派に分かれた街の有力者がその権力を誇示する象徴として競って住居を兼ねた塔を建てた。最も力と富を持つ者が最も高い塔を建てる。

最も多いときは72本の塔が立っていた。さすがに町の議会がもういい加減にしろよということになって、(今は市議会場などに使われている建物に隣接する塔の高さである)54m以上の高い塔を建てんじゃねぇーよと規制。んじゃぁー俺ん家はツゥインタワー建てちゃうもんね。2つ足すと俺ん家の方が高いもんねと言った具合。黒死病(ペスト)が流行して、街の人口が半減してしまってからは街も衰退。14世紀の黒死病と交通の要所としての役割が減り、その後街は衰退。72本あった塔も現在は14本。イタリア サン・ジミニャーノENR14-77518A イタリア サン・ジミニャーノ EBP08-14130A

この街でもう一つ有名なものとして、ジェラート(アイスクリーム)の世界コンテストで1位を取ったお店がある。その世界一おいしいとお墨付きのお店でジェラートを食べてみた。カップの大きさで値段が変わる。小さいカップで2.5ユーロ(\300)。大きので5ユーロ(\600)ぐらい。陳列されているジェラートから2種類選べる。日本のアイスクリームよりねっとりしたかんじ。やはり、期待が高かったせいか・・・・まあまあの味。世界の水準がわかってよかったと言うのが正直なところの感想。チョコレートはスイス、アイスクリームはロシアだ。

ローマ市に入ったのが14時過ぎ。大急ぎで昼食を終えて、バチカン美術館へ直行。ここも入場券売り場までは100mはゆうに超える長蛇の列。予め現地ガイドが入場券を用意しくれていた。館内は山手線のラッシュアワー時の駅の混雑ぶり。押すな押すなの状態。うっかりするとグループからはぐれてしまいそう。しかも、広いので歩くこと歩くこと。ツアー参加者の中から行き倒れの人が出るのではないかと思うほど。現地ガイドさんが言うには美術館内だけで一回の案内で8kmぐらい歩くこともあると言う。それでも、ミケランジェロが上を向きながら4年かけて天井へ描いた教会廊下の天井画やシスティーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」は実物を見て想定した以上に素晴らしかった。

ラファエロの間は通り過ぎて、残念ながらラファエロの絵画は見られなかった。うーん、やっぱりもう一度だな。次の時は、通常の開始時間よりも30分早く入場できる特別ガイドツアーが現地の旅行業者が企画しているから、機会があるのであればそれを使うのが良いと思っている。残念ながらバチカン美術館はグーグルのアートプロジェクトには協力してない。ストリートビューでは見られない。

「最後の審判」は素晴らしいと言うよりも面白かったと言う感じかな。右下に描かれた儀典長に似せた似顔絵の話を事前に知ったのでここばかり見てしまった。有名な話のようなので知っている人も多いと思うけど、念の為、次のようなお話。この最後の審判のには裸体が多い。ミケランジェロからすれば天国だから衣服なぞ着てないと言うことなのかもしれない。儀典長からこの裸が多いと言う点を非難された。「着衣をさせよ」という勧告が出されたこともある。ミケランジェロはこれを怨んで、地獄の王と蛇に絡まれている人物の顔をこの自分の芸術を理解しなかった儀典長にそっくりに描いた。しかも、その人物の股間を蛇がかみついている。

イタリア 最後の審判2 Last_Judgement_(Michelangelo)

これに対してて儀典長が教皇に抗議したところ、教皇は「煉獄はともかく、地獄では私は何の権限も無い」と冗談交じりに受け流されたという。と言う訳で、その後何百年にわたり、この話とともに儀典長の顔はさらしものになっている。芸術家をいじめると怖いね。気をつけなくちゃ。裸の方はミケランジェロの死後、弟子が股間にベールを描いて覆っている。この弟子もかわいそうにその後は「ふんどし画家」とのあだ名で呼ばれていたようだ。

バチカン美術館は1時間少しで見学を済ます予定だったのだろうか。実際は大幅に遅れて2時間以上かかっての見学。美術館を出たのは18時過ぎ。この時期、日暮れが遅いのに救われた。その後、スペイン広場やトレビの泉も訪れてやっとホテルと言う強行軍。もうクタクタだったぜ。フーッ。

イタリア旅行記 その6/9  ーールネッサンスの中心地、フィレンツェーー

4日目はルネサンスの中心地、フィレンツェ市の観光である。朝8時前にホテルを出発。まずは、フィレンツェ市内を一望できるミケランジェロ広場へ向かう。フィレンツェは市のシンボルはやはりドォーモ。メディチ家のお膝元。市街を一望した後は、メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵するウフィツィ美術館へ。
ここも、入場券を買うには長い長い行列。今回は事前に現地ガイドが入場券を購入していてくれた。ほとんど並ぶこと無く手荷物検査へ。空港並の手荷物検査を受ける。
ウフィツィ美術館はイタリアルネサンス絵画の宝庫と言われる。教科書でおなじみのボッティチェリの「春」(写真左)と「ヴィーナスの誕生」(写真右)も展示されている↓。この2つの絵画の前は黒山のひとだかり。この他にも「聖母子と二天使」とかレオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」とかがあったみたいです。
イタリア 春 Botticelli-primavera イタリア ビーナスの誕生 birth

なんせ、あんな広い美術館を1時間で回ってしまうツアー。ちょこっと見て「ハイ次」という具合です。鑑賞というよりも、お目当ての絵画の前で一旦停止して、通り過ぎるという感じ。ゆっくり鑑賞していたら1日かかってしまう。
話はそれますが、Googleのストリートビューってすごいね。こんな感じ↓
グーグル アート プロジェクト ウフィツィー美術館
ストリートビューで美術館内も巡回できるとは今まで知らなかった。(記憶が正しければ、私が見たときは、この2つの絵画は現在は別々の部屋に展示されていた。)

美術館の見学後はドォーモとシニョリーア広場へ。フィレンツェ観光では定番の場所です。午後は自由行動。HISは午後からピサの斜塔を行くオプションツアーも用意していた。添乗員は、現在乗車中のバスがそのままピサまで連れて行くと案内していた。HISはバスを1日チャーターしていたはずだからオプションツアーでの追加料金はまるまるHISの儲けとなる仕組みだ。商売がお上手。42名中8名がこのオプションでピサの斜塔見学へ行ったようだ。

私は、せっかく来たのだからフィレンツェ市内を見て回る方を選択。とは言うものの、案内人がいない。市内を一人でブラブラしても面白くない。というわけで、事前に、日本からセグウェイに乗って市内をめぐるツアーを申し込んでいた。75ユーロ(¥9000円ぐらい)。一度セグウェイに乗ってみたかったということもある。

14:30からセグウェイツアー出発。セグウェイに乗るのは初めて。米国のユタ州から来た若いカップルと一緒になった。2週間かけてイタリア観光しているという。ガイドを含めて4人でのセグウェイ市内観光ツアーとなった。ツアー出発前に、セグウェイの乗り方の個人指導。セグウェイは重心を移すことによって前後左右に動く。誰でも、2~3分乗り回せば、すぐに要領がつかめる。市内のあちこちを4台のセグウェイが列を組んで走る。なかなか気持ちが良い。イタリアではセグウェイは公道を走れる。とは言うものの、結構珍しい。セグウェイで走っていくと皆視線を向けてくる。イタリア セグウェイ乗車 本人

駆け足程度の速さで市内を回れるので、HISの徒歩ツアーでは行かなかったダビデの家や子豚の噴水なども案内された。行く先々でセグウェイを一旦止め、現地ガイドが詳しく説明してくれる。ただし英語で・・・・。流暢な英語だったので、3分の1ぐらいしか理解できなかったが、3年前にも洪水があったが、最もひどかったのが1966年の洪水だったことなど大まかなことは聞き取れた。その時は市内のかなりの部分が2階の高さぐらいまで水浸しになったそうだ。

川の反対側にサンスピリッツ教会がある。この教会には、フィレンツでは神様のように扱われているミケランジェロは夜な夜な通ったそうだ。何のために?死体を解剖するためだった。死体解剖の時に使っていたろうそくが倒れ、その教会は火事を出した。こういう話は日本人ガイドからは聞けない。ミケランジェロは人間、ことに男の肉体美に興味があったと聞く。それにしても、夜な夜な死体の解剖となるとちょっとゾットする話だ。イタリア サンスピリッツ(写真の奥がサンスピリッツ教会)

セグウェイツアーは約3時間の市内ツアー。17:30分に終了。帰りの集合時間はピサの斜塔見学組にあわせて19:00と少し時間がある。お土産も買わなくてはと言うことで、世界一古い薬局、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局に行き、石鹸を買うことにした。
1200年代にサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のドメニコ修道会の修道士達が耕していた畑で薬草を栽培し、修道院の小さな医務室で使う為の薬、香油や軟膏などの調合を始めたことが起源だと言うから、メチャクチャ古い。ハーブ薬局です。いろいろな香りの石鹸がある。どれも日本人にとっては強烈と思えるような香り。香りのうすい石鹸を選んで16個まとめ買い。1個10ユーロ(¥1200円ぐらい)の石鹸です。高いです。

イタリア旅行記 その5/9 3日目 ーーベニス訪問ーー

イタリア サンマルコ広場 25947042837

イタリア旅行3日目は水の都ベニスを訪問。ベニスの街の中心へ観光バスが乗り付けるのは難しいようだ。観光バスは街外れにある海沿いの観光バス駐車場まで。そこからは水上バスに乗り20分かけて街の中心となるサンマルコ広場へ。イタリア 水上ボート DSC_2115

観光の中心地サンマルコ広場付近はどこに行こうとしても人、人、人。観光客だらけ。広場にある教会の塔に登るにも教会に入るのも長い行列。広場の奥には時計塔がある。500年以上前に作られている。その上にブロンズの鐘と二体のムーア人像がある。この像が動くんだよね。毎時この二つの像が鐘を叩いて時刻を告げる。その下には、羽の生えたライオンの像。この羽の生えたライオンはヴェネツィア共和国とその守護神聖マルコのシンボル。その下にマリア様。うーん、なんと言っていいのか・・・・この辺が北イタリアの自治魂と言うのでしょうか。普通マリア様が上になるよね。

この時計の下のアーケードからショッピング街が続く。20分ぐらい離れたカナル・グランデにかかる大理石の橋リアルト橋まで観光客で賑わっていた。
イタリア リアルと橋から 無題(写真←リアルト橋からの眺め)

ベニス観光といえば、ゴンドラだ。このツアーにもゴンドラ乗船体験がついていた。ゴンドラは今や全くの観光目的。ツアーにはゴンドラ遊覧体験がついていた。一隻あたり30分乗船で80ユーロ。6人乗り。6人で割り勘となれば14ユーロ弱。1600円ぐらいで乗れる。ツアーの人たちと一緒に乗船。お子様連れで奥さんがベトナム人の夫婦3人と一人旅3人の6人で一緒にゴンドラに乗ることになった。

住宅地に細い路地のように掘削した運河をゴンドラに乗って、まったりまったりと通り過ぎていく。昔はゴンドラが交通手段として重要な役割を果たしていたことを肌で感じることができる。天気は快晴。気分は最高。ゴンドラで船乗りがカントォーネを歌ってくれるとくれると一層盛り上がるのだけど。そこまでは料金に入ってなかった。気分が向いてきたのだろうか、一緒に乗った子連れ夫婦のお子様が代わりに歌を歌い始めた。
イタリア ゴンドラ乗船 DSC_2121 イタリア ゴンドラ DSC_2129

ゴンドラ乗船後は自由時間。昼食も自分たちで勝手に食べろと言う。一人でHIS駐在スタッフのイチ押しというイカ墨パスタで有名なレストラン「Trattoria Alla Rivetta」へ行ってみた。ベネチアではイカ墨スパゲッティが一番美味しいお店だとあった。広場に隣接する博物館横の路地奥にある。ゴンドラの船乗りがよく利用するお店。窓にかけられたメニューを見ていたら、中から中年のおじさんが出てきて、中へ入れ入れとの仕草。日本語のメニューも用意されていた。

イカ墨スパゲティを注文した。期待が高かったのだが、実際の味はというと・・まあまあというレベル。店の雰囲気が古いなりにウィエター役のおじさんとともに感じが良かった。イタリアは食事が美味しいと聞いて期待していた。しかし、日本人向けに味付けされているのだろうか、都内のレストランのイタリア料理店の方が美味しいんじゃないかとも思う。

イタリア旅行記 その4/9  3日目  ーーベローナーー

前回の答えは、①中国語、でした。
教授は簡単という言葉を使うのが適切かどうかはわからないがと前置きしつつ、学びやすいというのであれば、論理的な言葉としては中国語だという答えだった。動詞が過去形や過去分詞に変化するようなことがない。名詞が男性とか女性とかの区別がない。(中国語に過去形がないということではない。動詞の後に”了”をつければ過去になる。あるいは昨夜とか明日という言葉をつければ、動詞は変えなくても過去形や未来形になる。時制に応じて動詞が変化しないのは確かに学びやすい。)

まぁー、確かにそうだよね。今回イタリアに行くにあたり、イタリア語もちょっと勉強した。スペイン語と同じように動詞の変化を覚えるのが大変。動詞は人称と単複で変わる。つまり、1・2・3人称の単数形、その複数形と現在形だけで6変化。これに複合過去に単純過去,あとは未来形と条件法と1つの動詞について50通り以上の活用があるようだ。まぁー、それを全部覚えなくて良いし、かつ変化の形も決まっているのでそれほど大変ではないという意見もある。それでも30パターンぐらいの変化は覚えなくてはいけない。一つの語学に慣れ親しむにはそれなりの努力が必要です。

さて、ミラノ市内の観光は午前中で終わり。団体ツアーでは路面電車に乗って市内を見て回ったり、スカラ座の建物の中をじっくり見てまわったりなんて時間はまったくない。短期間で観光名所をグルグル回る。

昼食後は、ロミオとジュリエットの舞台となったベローナへ。ベローナには中世の街並みが残っていた。観光客も多かった。アリーナと呼ばれる円形闘技場はローマのコロッセオよりも完全な形で残っている。そして、2000年経った今でもまだ実際に使われている。すごいね。夏はオペラやバレーの会場として6月カラ8月にかけてはほぼ連日何らかの行事が開催されているようだ。
ベローナへ来る観光客のお目当てはジュリエットの家だ。愛をささやいたとされるベランダが面している中庭は観光客だらけ。小説はあまり好きでない私は、ジュリエットの家よりも市街地を囲む城壁がそのまま残されているのをみて感動しました。やはり、中世の街は壁で囲まれていたんだと。
  
(上から順に、ベローナの城壁。広場でくつろぐ人たち。ジュリエットの家のベランダと中庭。ベランダにいる女性は単なる観光客。)

とまぁーー旅行記で言うとこの程度の感想になるけど、ふと、なんでまたシェイクスピアがこのイタリアの一都市の恋愛物語を書きたのだろうと思ってしまった。そして調べてわかったこと。
① ロミオとジュリエットには、ネタ本があった。シェイクスピアはそれを戯曲化した。恋愛物語の、ストーリを作ったというわけではなかった。そのネタ本の大元はイタリアで書かれていた。
② そのネタ本の作者は、ロメオとジュリエットの話は本当にあった話と主張していた。一方で、創作話であるという見方もある。その立場を取る専門家の間でも、当時似たような話は何件かあったという見解である。
③ というのも、13~14世紀頃の北イタリアは、教皇派(ローマ教皇庁)と皇帝派(神聖ローマ帝国)が地域の支配権を巡って争いが絶えなかった。キリスト教異端派が多かった。この異端派は正統の教皇派から迫害を受けた。そこで当時の神聖ローマ帝国側についた。
④ ベローナでは皇帝派が権力を握っていた。が、14世紀にローマ教皇(グレゴリウス9世)が神聖ローマ皇帝(フリードリヒ2世)を反キリスト教的として破門してからは、皇帝派と教皇派の争いが激化した。同じ派の中でも派閥争いがあってもうぐちゃぐちゃ。自分の家は自分で守るしかなくなって、家々が要塞化したようです。でもって、ロミオの家は皇帝派、ジュリエットの家は教皇派。
⑤ そういった政争を背景として、一時の平和を求めて権力者の家どうしによる政略結婚が行われる。そんな中でロミオとジュリエットのような恋愛悲劇が実際には何件か起こっていたようです。

うーん、ロミオとジュリエットは本当にあった話かもしれないとわかると、もう一度ロミオとジュリエットの映画見たくなってきた。実際にあった小説にもないような意外な話を見聞きするのは好きなんです。
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